北九州・小倉南区の歯医者 上田歯科医院の理事長に関するページです。

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上田歯科医院 理事長紹介
~より知っていただく為の自己紹介~

私の1番の目標は歯科が一番人気の職業になり心からやり甲斐のある 楽しい仕事にしていきたいです。
そのために地域医療の発展に貢献し、最先端の治療、設備で診療をして 家族にも行う、私ができる私が考えている
ベストな診療を今からも行っていきます。

誕生

1968年 昭和43年12月2日
北九州市小倉で生まれました。3300gありまあまあ大きかったのですが1歳で14キロまで成長して母親が重くて大変だったそうです。
健康優良児でミルクを噴出すまで飲んでいたそうです。
かなり可愛い子供だったそうですよ(笑)

北九州市小倉の北方ばかりで3回引っ越しました。
父親は2代目歯科医師で最初の医院は祖父が1932年 昭和7年 に開業した場所2Fが診療所の1階が自宅でした。

 幼少期、小学校時代

誕生

とにかくたくさん食べて他の子供に比べて大きかったと思います。
その頃は子供がたくさんいたので北方小学校は1学年で7,8クラス あったと思います。
その後守恒小学校ができて

誕生

5クラスになりました。その頃は町内ごとにソフトボールのチームがあり夏休みに試合をしていました。

私は大きい方だったのでピッチャーをして4番、 チームの大黒柱でした。
平日は毎日練習をしていました。
しかし一番残念だった事は6年生の夏休みの最後の試合に 私は塾の夏季合宿で試合に出られませんでした。
そのことは本当に残念でした。いつも親を恨んでました。
なんで塾に行かないといけないのか。試合に出られない悔しさや
今まで練習した成果が出せなくて後悔をしています。

その時の気持ちがあり今現在、子供たちに勉強しろとは言わない お父さんになっています。

文武両道で行かせたいと思っています。

中学高校時代

地元中学にはいかず日新館中学に行きました。
今では珍しい男子校で回りは頭がいい子も多く 勉強が一番楽しい時代でした。
そのときは剣道部に入り初段まで続けました。

高校も飯塚にある日新館高校に入学して部活は2年まで 野球部に入っていました。
一時小倉まで通学していた時期もあり辞めてしまいました。
寮に入っていたこともあり友達はたくさんいましたが 楽しいばかりであまり勉強もせずに過ごしてしまいました。

まだまだこの頃は考えが甘かった時代です。

大学時代

推薦入試で福岡歯科大学に合格し 入学式まえの3月に博多に行っていましたがその頃は自動車免許を取りにいったり
引越センターでアルバイトをしていました。
そうこうしているうちに新1年生が引越ししてきたのを先輩達が
聞きつけてまずは空手部に勧誘される。
しかしなぜか上の先輩達の間で話が決まっていたらしく

大学時代

ラグビー部に入部決定。
野球部に入る夢は途切れた。
それからは福岡歯科大学ならぬ福岡ラグビー大学並みの練習、飲み会 が開始された。

雨の日も風の日も毎日練習。
試合の次の日だけ練習が休みだったのでその日は天国でした。
学校に行けなくても練習だけは欠かさず皆勤でした。
1年生での出来事で私が調子にのる出来事が起こりました。
それはリーグ戦で活躍した人に送られるベスト15(フィフテーン) に選ばれたことです。

大学時代

なんだ!ラグビー経験者じゃなくても選ばれるんだと。
2年生になって1年生が10人以上入部してからは試合に出られなく なりました。
やっぱり怠けたら駄目な事を知りました。
2,3年の夏合宿が高千穂でありました。大体1週間ほどありましたが
普通は3部練など練習づくしなどで皆やせて終了するのですが
私はなんとそんな状況でも5キロ太ってしまったのです。
なぜかと言うとラグビー部には食い地獄な風習があり
毎食先輩がどんぶり茶碗にかき氷のようなご飯を餅のように なるまで押し付けたご飯を5杯食べていました。
フォワードであった私はスクラムで押していけるように
体重を重くしないと相手に負けてしまいます。 そんな出来事も今となってはいい思い出です。
もうそんなに食べる事はできませんからね。
と言っても遊んでばかりではなく卒業試験、国家試験のときは 頑張って勉強して無事に一発合格。
晴れて歯科医師の免許を取得しました。
勉強を集中してできたのもラグビーをしていたからかもしれません。

卒後、新米勤務医時代

卒業後の進路もあまり決めてなかった私は まずは同級生の3人でハワイに卒業旅行に行ってきました。
4月にいったので無茶苦茶安い価格で充実した旅行になりました。

その後帰ってきてから九州歯科大学の歯科麻酔学講座に入局して
なぜか治療はせずに手術の記録をずっとしていました。

卒後、新米勤務医時代

歯科医師最初の給料を県の公務員としてもらいました。
安月給でしたがいまでもその時の嬉しかったことは記憶にあります。
卒後研修が終わってから飯塚の康和会で勤務することになり そこから初めて歯科治療を開始しました。
その時まだまだ27歳。
分院が7件ほどあり飯塚~鞍手~長崎の島原といろんな所に 行って修行しました。
特に島原ではみんな家族のように接してもらい色々とお世話になりました。
院長とも連絡を取っていますがなにも怒らず診療させていただいた事を 感謝しています。
その時の思い出の1つに 昼休みに女性でトップのチーフ(婦長さんみたいな人)が僕に根っこしか残っていない
歯を抜いてくれとお願いされました。
僕は絶対抜いてやると意気込んで取り掛かりましたがいくらぐりぐりしても つまんでみても取れません。
何分かたったときに院長がきて僕と代わりました。
とおもったらもうすぐに抜いてしまいました。
その時の僕の悔しさ、情けなさはかなり衝撃的でした。
同じ歯医者なのになんでこんなに違うんだろう。
せっかくチーフから頼まれたのに僕は期待に応えられなかった。
それから抜歯に関する本を読み、抜歯に関する講習会にも 行くようになりました。
今では親知らずなどの抜歯も得意になり絶対の自信があります。
その昼休みの経験がなかったら今でも不得意なのかもしれません。
29歳のとき周りからもそろそろ小倉の歯科医院に帰ってきて
父親と一緒に診療をして顔を覚えてもらいなさいと
お世話になっている先生のお言葉もあり戻ることにしました。
少ししか勤務していませんが戻る前に本城の川野歯科に勤務しました。
そこの院長に最初にいわれた記憶に残る一言があります。
「馬鹿はいらん」
自宅に挨拶に行ったときに言われた言葉ですがなにを言ってるのだろうかと 不思議な気持ちでした。
しかし今ではわかります。
1回言われたら同じ失敗は繰り返さない。
集中して適度な緊張感をもって診療することなのだとわかりました。
その後現在の北方、上田歯科医院にもどり診療を開始しました。
その時まだ父親は57歳でした。今考えたら若かったんだなと思います。
帰ってからはほとんど私が診療をしていましたが
よく父親から怒られる事が多く、それも患者さんの治療をしている
後から言われていたので終わってからよく喧嘩をしていました。
1日の患者さんも10人代で少なくずっとパソコンしたり もの凄くボーっと1日を過ごしていました。
それから7年間、36歳までは休みの日は趣味や子供と遊んだりと
あまり勉強はしていない時代でした。

院長時代(当初10年)

2005年(平成17年)に医院継承。
院長になってからユニットを変更、医院の全面改装をして 徐々に患者さんが増えてくる。
やっとエンジンがかかってきた。
2010年頃から全国の頑張っている先生達のグループに入り
勉強する事でいかに私自身がのんびりしていた事に気付く。
私は何のために歯科医師になったのだろうか。
この調子のまま歯科人生が終わっていいのかを考えていた。
たくさんの全国のトップの先生を見ていて
私もそんなモチベーションの高い歯医者になりスタッフや患者さんから慕われる 歯科医師になりたいと思うようになりました。

院長時代(10年目~)

当初、私が帰ってきたときの  助手スタッフ1名 技工士1名父親が院長、4人で の診療がスタートでした。

そして現在はDr3名 DH4人 DA2人 受付1名 DT2名 計12人 で診療するまでになりました。

それまで色々と紆余曲折ありましたが
今では技術はもちろん、知識もコミュニケーション能力も高いスタッフが居心地の良い癒しのひと時を提供し歯科治療により健康で明るく楽しく 豊かな人生となるように手助けをしていきます。
そして最後に感動できる歯科医院を作っていきます。

当院1Fにメンテナンス専門院オープン!当院では、より気軽に歯に大事なメンテンスを行っていただくために、メンテナンス専門院をオープン致しました。

tel:093-921-1806

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